終活ブームのはじまりとエンディングノート
「終活」がブームといわれるようになって、10年ほどになります。「終活」という言葉自体が登場したのは、平成21(2009)年から連載された週刊朝日の記事タイトル「現代終活事情」が最初だといわれています。
後にムックとして発売されたタイトルが「わたしの葬式 自分のお墓」だったことでもわかるように、この特集で扱われた「終活」は主にお墓事情や葬儀のことでした。
当時、徐々に知られるようになってきた「直葬」(通夜や告別式を最小限にし、少人数で見送る)や「家族葬」、埋葬に関しては「樹木葬」や「自然葬」が取り上げられています。
さらに同時期、「葬式やお墓はほんとうに必要なのか」を論じた新書『お葬式は、要らない』(島田裕巳著、幻冬舎新書)が出版されたことで、葬儀やお墓のあり方から「そもそも必要なのか」という視点での議論が高まりました。
平成23(2011)には、経済産業省が「安心と信頼のある『ライフエンディング・ステージ』の創出に向けて」と題した報告書を発表します。ここでは、人の一生を「ライフサイクル」として考えた場合、その後半のサイクルには人生の終末に備えて準備を行う「生前準備期」、終末期医療を含めて人生が終末を迎える「ライフエンド期」、そして遺族などが再び日常生活に戻る「再構築期」がある、と定義しています。そして、報告書はこれらの時期と行動を合わせて「ライフエンディング・ステージ」と呼び、公的な支援や民間産業の振興を行うべきだとしています。
経産省の報告からもわかるように、人生の終末を考えるときに必要なのは「お墓」や「葬儀」のことだけにはとどまりません。そこでテーマとして取り上げられたのが「老い」です。認知症や延命治療など医療面の問題、老後の生活資金や遺産相続などさまざまな問題を乗り越えて「生前準備期」をどう迎えるか、これこそが「終活」だ、として、『終活ハンドブック』(本田桂子監修、PHP)や『おひとりさまの終活―自分らしい老後と最後の準備』(中澤まゆみ著、三省堂)などの書籍が発行されました。これで「終活」という言葉の定義が大きく広がり、老後の人生設計から葬儀・お墓までを幅広く捉えたキーワードとして一大ブームを呼び起こしたのです。
以来、終活をテーマにしたさまざまな書籍や雑誌が世に出ることになり、大きなブームとして続いています。
さて、それではエンディングノートについてはどうでしょうか。
エンディングノートは終活ブームよりも早く世の中に登場した言葉です。Googleの検索キーワードで見ると、「終活」は2010年までほとんど検索されなかった一方で、「エンディングノート」は2000年代初頭からじわじわと検索数を伸ばし、2010年を過ぎると爆発的に普及します。
その大きなきっかけになったのが、2011年に公開されたドキュメンタリー映画「エンディングノート」(監督・砂田麻美/プロデューサー・製作/是枝裕和)です。新人監督の、しかもドキュメンタリー映画としては異例の大ヒットとなり、国内の興行収入は1億円を超えただけでなく、海外の映画祭でも高く評価を受けました。
監督・撮影・ナレーションを務めたのは、砂田麻美さん。映画は、砂田監督のお父さん・砂田知昭を軸にして展開していきます。
砂田知昭さんは、高度経済成長期を支えた熱血営業マン。化学メーカーに勤務して67歳まで仕事一筋の生活を続け、定年後の第二の人生を楽しみにする明るく活力のある「日本のサラリーマン」です。
しかし毎年受けていた健康診断で、ステージ4の末期胃ガンが発覚。大きなショックがあったのは間違いありませんが、「段取りの名人」といわれた砂田さんは「最後のプロジェクト」として、自分の「最期」をどう過ごすかに取り組みます。そのプロジェクトが、「エンディングノート」です。
家族の一員でもある砂田監督は、自身が担当したカメラとナレーションを通じて父・砂田さんと家族が最後に迎える「エンディング」にどう対峙していくかを、ときに冷静に、ときに明るく、暖かく描きます。
映画の中で、砂田さんは「エンディングノート」と名付けたToDoリストを作りました。そこに並んでいたのは、「式場の下見をすること」「長男に希望する葬儀の形式を引き継ぐこと」「気合を入れて孫と遊ぶこと」「神父を訪ねること」「洗礼を受けること」……そして、「妻に(初めて)愛していると言うこと」。砂田さんが、自分らしい人生の終末を迎えるにあたって、これまでやりそこねていたこと、やっておきたいことなどが綴られています。
砂田さんと家族はどのような「エンディング」を迎えたのか。当事者の目線でつづられた貴重なドキュメンタリーですから、ぜひDVDなどでご覧になることをお勧めします。
エンディングノート、いつから書く?
さて、そんな経緯で一般的に知られるようになった終活とエンディングノート。エンディングノートに興味や関心がある方でも、「いつ、どうやって書けばいいだろう……?」とお悩みの方は多いでしょう。また、ご家族の立場だと「『エンディングノートを書いてほしい』とこちらから言うのは、急かしているようでとてもできない」という気持ちになる方も多いのではないでしょうか。
エンディングノートには法的な効力やきちんと決められた書式はありません。ですから、「いつから書く?」という質問には、「いつでもいいですよ」というのが正しいお返事になります。
とはいえ、さすがにそれではあんまりなお返事になります。そこで、この記事ではいくつか「エンディングノートを書き始めるタイミング」についてのご提案をさせていただきたいと思います。
「人生の節目」ではじめる
「人生の節目」というと、まず思いつくのは年齢です。もっとも大きな節目といえば、還暦を迎えたときでしょうか。定年が65歳に延長された企業が増え、平均寿命も大きく伸びた現在とは異なり、かつて60歳というと十分長寿のうち、という認識でした。還暦の際に着せられる赤いちゃんちゃんこは、赤ん坊が生まれたときに着る産着を意味しています。「還暦」という言葉自体、干支が5周して「暦が還る」という意味から出てきた言葉です。人生について改めて考える「節目」としては、大きな意味があるでしょう。
60歳以降も、70歳(古希)、77歳(喜寿)、80歳(傘寿)、90歳(卒寿)など年齢から見た節目は、それぞれエンディングノートを手に取るタイミングに適しています。自分自身の年齢もですが、親の世代が節目の年齢を迎えることによって、エンディングノートについて考えるきっかけになるでしょう。
次に考えられるのは、定年退職したときです。長く勤めた会社から去るということは、「職業人」としての人間の側面が大きく変わることを意味します。仕事一筋!というモーレツサラリーマンはかつてよりも少なくなったかもしれませんが、これまで着ていたスーツを脱いで会社の名刺を手放すのは簡単なことではないでしょう。
子供が自立して家から出ていく、というのも大きな節目です。一瞬も目が離せない赤ん坊時代から、幼稚園や保育園に通って社会行動を学び、小学校で勉強をスタート。家庭によってはこの時期から受験という場合もあるでしょう。小学校後半から中学校に通いだすころから反抗期を迎え、高校時代には本格的な親離れの時期を迎えます。大学に行く年頃には投票権もある一人前の成人となる……。そんな子供たちが、いよいよ巣立ちの時を迎えて実家を後にする。残った親にとっては、また新しい人生の始まりといえるでしょう。
子供が結婚したとき、というのもいいかもしれません。家庭の機能を「子供を産み育て、社会に送り出す」ものだと定義すれば、子供が結婚したということは家庭として、夫婦としての役割のひとつを終えたのだと考えることもできます。となると、自分たちの人生の終わり方をどうするかを考え、エンディングノートに着手するタイミングとしては向いているのではないでしょうか。
孫が生まれるということも、人生のひとつの節目です。自分たちの世代が親となり、育った子供たちが次の世代を生む。この世に誕生したばかりの、まばゆいような生命の輝き。それを慈しみの目で見つめるとき、新たに親となった子供たちの成熟とともに、自分たちの「老い」と「終わり」を意識することもあるでしょう。
マンションやマイホームなど、家を買ったとき、ということもあるでしょう。ほとんどの人にとって、「家を買う」のは人生で何度も経験することのない大きなイベントです。とくに、ある程度年齢を経てからのマイホーム購入は「終の棲家」という意識を前提にしていることも多いはず。となると、やはり「終わり」を意識してエンディングノートを手に取るきっかけになります。
ここで挙げた人生の節目は、いずれも「おめでたい」「喜ばしい」というニュアンスが強いものです。終活やエンディングノートというとどうしても湿っぽくなりがちですが、こんなおめでたいことを契機に書き始めたとするなら、エンディングノートにも楽しく取り組めるのではないでしょうか。
「大きな病気がわかったとき」にはじめる
大きな病気にかかるということは、否応なく自分の人生の「エンディング」を意識させられることです。余命を告知されるような重病の場合も、長く治療を続けなければいけない慢性病の場合も、「終わり」について考えることになります。事故などで体が不自由になった場合や、心臓や脳血管障害などの急病で倒れた場合も同様です。
余命告知を受けた場合はいうまでもありませんが、病やケガで身体に不具合を抱えると、どうしても「自分は若いころと同じ身体ではないのだ」という現実と向き合わなければいけません。
日本人の平均寿命はどんどん伸びています。2018年の日本人の平均寿命は、女性が87.32歳、男性が81.25歳で、いずれも過去最高を記録しました。さらに、100歳以上の人口は連続で増えて7万人を超えました(2019年9月13日、厚生労働省発表)。
もちろん誰もが平均寿命まで生きられると保証されているわけではありません。しかし、医療技術の進歩や健康診断の普及などで、健康に日常生活を送っている人からは「病」や「死」という概念自体やや縁遠くなっていることも多いでしょう。
厚生労働省は、「患者調査」という調査を行い、日本人の病気や入院の様子をまとめています。ここでは、平成29(2017)年の調査から見てみましょう。
日本人の死因は、長らく「悪性新生物(がん)」「心疾患」「脳血管疾患」の三大疾病が大きな割合を占め、ついで老衰、肺炎となります。病院にかかっている患者の総数で見ると、脳血管疾患の患者数は右肩下がりになっている一方、がんの患者さんはじわじわと増え続けています。また、病気別の入院日数でみると、もっとも長いのは統合失調症などで531日、認知症などが349日、アルツハイマー病などが252日などとなっています。
入院日数の平均は29.3日ですが、65歳以上の場合は3.2週間を超える長期入院が41.9%に達します。
近年の医療制度改革で、患者さんの長期入院はなるべく少なくし、在宅・地域医療への転換が進められていますが、実態はまだまだ長期の入院を必要とする患者さんが多いことがわかります。また、100日を超える長い期間入院している患者さんは、統合失調症、認知症、アルツハイマー病など自分の意思を他の人に伝える能力が低下する病気が多いこともわかります。
認知症やアルツハイマー病は徐々に進行する病気ですが、突然発症して意識障害に至る病気もあります。脳梗塞などの脳血管障害や、狭心症や心筋梗塞などの心血管疾患はその典型です。普通に日常生活を送っているような健康状態から、一足飛びに自分の意思が伝えられない状態になってしまうわけです。
最近では「健康寿命」(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)という考え方も話題になっています。たとえ長く生きることができたとしても、ずっと入院していたり、介助がなければ外出できないという状態になると、それまでの人生とは大きく違った状態になったのだ、と身にしみることでしょう。
がんなどの大きな病気にかかる前でも、自分の「健康寿命」に少しでも自信が持てないという気持ちがあるようでしたら、エンディングノートのことを考えてみてもいいかもしれません。「もしものこと」が起こってからでは間に合わないこともあるのです。
「人生の振り返り」ではじめる
さて、ここまで見てきた「人生の節目」と「大きな病気」は、言ってみればどちらも外部の基準です。それぞれエンディングノートをはじめる際には重要な理由になりますが、もちろんエンディングノートは自発的に書き始めてもいいもの。
そこでご提案したいのが「人生の振り返り」です。いわば、自分史を書くつもりでエンディングノートに取り組んでみてはどうでしょう。
「人生の終わり」を意識したときに、人は何を思うのでしょうか。
そのとき自分が、人生という旅路の中でどの道程に立っていると感じているか。道半ばなのか、やるべきことはやったのか。心残りのことがあるのか、満ち足りているのか。
「すべては満足で、いつ終わりが来てもいい」と常日頃思いながら暮らしている仙人のような人は、世の中には少ないでしょう。
誰もがさまざまな思いにとらわれる「人生の終わり」のとき。まずひとつ考えたいのは、「自分は何者なのか」という問いへの答えではないでしょうか。それを形にすることは、「自分史」を書き残すことを意味します。
市販・配布されている多くのエンディングノートに、まず自分のプロフィールを書く欄があるのは、そういう理由からのように思えます。
いつどこで生まれ、どんな食べ物が好きで、どんな土地に住み、どんな学校に行き、どんな仕事をしていたのか……。そんなことを書き連ねていくなかで、忘れていた自分の側面や、影響を受けた本や映画、長らく会っていない友人の顔など、忘れていたたくさんの記憶に再び出会うことがあるでしょう。
以前、「自分史」を書くというブームがありました。自分史のメリットには、自分が生きてきた歴史を振り返り、自分だけの生きた証を残せること、自分のこれまでを考えることで改めて自分自身を知ること、それによって新たに生きがいを見つけたり自分自身を好きになれること、などがあるといいます。
一般社団法人・自分史活用推進協議会は、自分史は「自分のことを客観的に振り返り、より深く自分を知るために役立ち、また自分をPRしたり、ほかの人とのコミュニケーションをよくしたりするツール」として役に立つものだ、としています。これは、エンディングノートが持つ力と共通するものがあります。
また、2015年に創立されたベンチャー企業・株式会社こころみは、本人へのインタビューを元に全20ページの自分史を制作する「親の雑誌(https://oyanozasshi.jp/ )」というサービスを行っています。「自分でペンを取って書くのは難しくても、誰かに話をしてまとめてもらうと面白い」と、高齢者からも家族からもたいへん好評とのことです。
このように、自分史は本人のためにも家族のためにも大きな役割を果たします。
自分史としてのエンディングノートなら、いつでもスタートできます。思い出したことはあとから書き足してもいいでしょうし、必要な情報はおいおいでもいいかもしれません。まずは、ペンを取ってみてはどうでしょうか。
自分を癒やすエンディングノート
エンディングノートには、後に残る家族の心を癒やすという大きな役割があります。
また同時に、それは本人にとっても「人生の終わり」という事態を受け入れるための大きな助けになります。
人は、「自分の死」という事態に直面すると、5つの段階を経て死を受容するといわれています。これを、「キューブラ―・ロスの死の受容過程」といいます。
第1段階は「否認」。死が避けられないという事実を拒否し、否定しようとする段階です。「それは何かの間違いだ」と反論しようとしますが、本当は避けられない事実であることは知っています。また、自分の死を前提に行動しようとしている周囲の人たちから、距離を置こうとします。
第2段階は「怒り」。死を否定しきれない事実だと自覚すると、「なぜ何も悪いこともしていない自分が死ななければならないのか」「もっと悪いことをしている人がいるだろう」という疑問がわき、大きな怒りを感じます。場合によっては、家族や周囲の人に「死ななくていい人はいいね」などと嫌味を言うこともあります。
第3段階は「取引」。ちょっと不思議な表現ですが、自分の死をなんとかなかったことにできないかと、神様や絶対的な存在にすがったり頼んだりする段階です。「死ぬこと自体はしかたがないが、もう少し後にしてほしい」「○○をするので、もう少しだけ生きてさせてほしい」など、死を回避するための方法を探します。
第4段階は「抑うつ」。「もう神も仏もないのか」など、第3段階の「取引」での神頼みに効果がなく、死を免れることができないことを理解する段階です。第1段階の「否認」の段階から、理性ではわかっていた「死」が、感情面でも理解できるようになる段階ですが、そのため気持ちが大きく落ち込み、絶望に打ちひしがれてしまいます。虚無感にとらわれる場合もあります。
第5段階が「受容」。これまで必死に拒絶し、回避しようとしていた「死」を受け入れ、生き物として生まれてきたからには死ぬことが自然なのだと受け入れられた状態です。自分なりの生命感や人生観を見出し、自分をその中に位置づけるような場合もあります。人生の終わりを見つめ、心穏やかに最期を迎えることができるようになります。
突然重病を告知され、自分が命を落とすことがわかってしまった場合、いきなりエンディングノートを書こうという気にはなかなかならないでしょう。それは、まさに第1段階「否認」の状態にあるからです。
「否認」から「受容」に至るまでどれくらいの時間が必要かは、人によって大きく異なります。エンディングノートを開き、少しずつ書き進めることは、穏やかな「受容」の段階へのステップを少しでも楽なものにしてくれるでしょう。
家族を安らげるエンディングノート
人が亡くなるということは、言うまでもなく非常に大きな出来事です。大きな病気で回復が望めないことがわかると、本人はもちろんのこと家族や親族、知人友人に至るまで、心に大きな衝撃を受けます。
この悲しみ、痛みはあまりにも大きいため、誰しも自分だけで短い期間に回復することはできません。長い病気をされて……という場合は自分なりに覚悟はしているかもしれませんが、それでも強い衝撃と喪失感に心を支配されます。事故や急病などの場合は、言うまでもありません。
ある一定の時期を過ぎると、「これは誰にでも起こることだ」と自分を納得させ、自分を守ろうとする心の動きが生まれます。しかし、だからといってそのとき感じた怒りや悲しみといった強い感情は消えてしまうわけではありません。心の中にずっしりと折り重なっていくのです。
このように、「大切な人や身近な人が亡くなる」という事態に直面すると、人は喪失感や強い悲しみとそこから立ち直ろうという気持ちの間を行き来して、その都度心を痛めます。この状態をどうやってケアするか、ということで最近よく聞かれるようになった概念が「グリーフケア」です。
グリーフとは、深い悲しみを意味する言葉です。
個人によって差はありますが、多くの人は「死別」という大きな痛手を受けると、「亡くなった人への思い出が募る」・「亡くなった人が本当にいなくなってしまったことによって疎外感を感じる」・「何もする気がなくなり、空虚に感じる」という状態を行き来しながら、いずれは現実に適応していきます。
グリーフケアはこの状態から無理やり立ち直らせるのではなく、それぞれのタイミングを見計らいながら寄り添うケアです。グリーフケアには「強い悲しみに備え、感情を軟着陸させる準備をする」「悲しみに直面しすぎないようにする」など、いくつものアプローチがあります。
エンディングノートを作るという作業も、グリーフケアのひとつといえます。本人にとっても、家族にとっても、来るべき喪失の痛みを和らげるための助走のようなものです。
ノートを作る本人は、これまでの人生を思い返しながら整理し、家族との絆を再び確認することができます。
人生を構成してきたさまざまなパーツをひとつひとつ確認し、見直して並べ直してみる。そうするなかで、これまで悔いが残っていたこと、やり残したことにもそれぞれ意味があることがわかるかもしれませんし、「どうしてもあの人に会っておきたい」という自分の気持ちに気づくこともあるでしょう。
それを言葉にして書き残しておくのも良し、敢えてそのままにしておくのも良し。そうやって「心の棚おろし」をしていくことで、だんだんと迷いや苦しみから抜け出せるかもしれません。
家族は、エンディングノートを作る作業に寄り添うことで、心の準備を整えることができます。本人はもちろん、家族もまた「心の棚おろし」をしながら、現在の状況と来るべき未来に備えることができます。
もちろん、いざということが起きた後は、エンディングノートを読み返すことが残された家族にとってグリーフケアの一助となります。
「あのときお父さんは『やっぱり美大に行っておけばよかった』って言ってたけど、あれは本音だったよねえ」
「お母さん、『子育ては楽しいことばっかりだった!』って言ってたけど、ホントかしら。確かにニコニコしてたよね」
そんな話をしながら、エンディングノートのページをめくる。すると、やはり家族の顔には自然と微笑みが浮かぶでしょう。
大切な家族がつらい悲しみに打ちのめされたままでいるのは、本人としても望むところではないでしょう。その痛みを少しでも軽くすることは、本人から家族へ残せるひとつの思いやりです。そのために、エンディングノートが果たすことができる役割は大きなものがあるのです。
格言や名言じみた、肩ひじ張った文章である必要はありません。「どうしても伝えたい」「知ってもらわなければ」でなくてもいいのです。普段着で、ありのままの言葉をそっと置いておく。そんなエンディングノートは、家族にとってとても大切なものになるはずです。
法的な拘束力を持つ遺言書と違って、エンディングノートはいつでも書き直したり書き加えたり、さらにはゼロからもう一度書いてもいいのです。人生の黄昏時、日々思うことを書き綴った日記やイラスト、俳句や短歌も、また立派なエンディングノートになります。
たとえば、昔の写真アルバムから写真を選んで、その頃の思い出を一言ずつ書いていくのはどうでしょうか。書いているとき身近にご家族がいれば思い出話に花が咲きますし、亡くなったあとで家族が見返してみると、本当に素敵なノートになることでしょう。
自分自身と家族のために、大きな役割を果たすことができるエンディングノート。書くタイミングはあなた次第、いつ書いてもいいものです。ですが、本当に必要なときにその力を果たすことができるように、しっかり備えておきましょう。